ブリスティン・シェル 著




 トリフィスはバリシメインの胸壁に立ち、火山をじっと眺めた。詩人の用いるどんな比喩も、この光景を前にしては薄っぺらに思えてしまう。血のような溶岩は“ただれた傷口”に喩えられる。山頂が決して晴れない煙に覆われている様から“灰の王”とも呼ばれる。だがやはり、どれも物足りない。この山の壮大なスケールを余すところなく活写した表現に出会った事がない。この砦から何キロも離れているのに、レッドマウンテンはその威容で地平線を埋め尽くしていた。


 だが、自分のちっぽけさを感じている暇はなかった。中で呼ぶ声がした。それで少し励まされた。この山に比べたら他愛のない存在である自分にも、いくばくかの権力や影響力は残されているのだと実感できた。


「インドリル・トリフィス将軍」指揮官のラエルが言った。「東門で問題が」


 問題といっても、ケンカに毛の生えた程度のものだった。おそらくシェインで酔っ払った1人のアシュランダーが、裏門の衛兵に殴り掛かったのだ。衛兵たちが追い払おうとすると、アシュランダーのいとこたちが加勢して、あっという間に6人のアシュランダー対12人の衛兵との殴り合いに発展した。連中が武装していて手こずったが、普通なら始まる前に収まっている騒ぎだ。結局2人のアシュランダーが死に、残りは全員逃走した。


「煙で脳がやられたのでしょう」ラエルが肩をすくめる。「それで頭がおかしくなった」


 トリフィスは晩餐用の服に着替えるため、階段を上がり自室へ戻った。間もなくレドラン・ヴォリルク将軍とフラール・ノゾック評議員が到着し、五大家がモロウウィンドに所有する領地の再編について、聖堂が打ち出した計画をもとに話し合う事になっていた。モーンホールドはアルマレクシアと改名され、ヴィベクを称える壮麗な新都市が建設されるという話だが、建設費用は誰が出す? トリフィスは考えるだけで頭が痛くなった。細かい問題が山のようにあり、議論と脅迫と妥協に満ちた長い夜が待っていた。


 そうした雑念に気を取られ、将軍は家のローブも後ろ前に着そうになった。当然、タペストリーの背後から人影が忍び出て、寝室の扉を施錠するのにも気づかなかった。鍵の掛かる音がしてようやく、トリフィスは振り向いた。


「裏門でのケンカ騒ぎに乗じて忍び込むとは実に狡猾だな、テイ」彼はあっさりと言った。「それとも最近はダゴス・タイソンと名乗っているのか?」


「最初から知っていたくせに」若者は吐き捨て、剣を抜いた。「僕はタイソンだった。あんたが僕の家族を虐殺し、一族を根絶やしにしようとするまでは。あんたが僕を養子にして、本当の家族を憎むように仕込んだんだ。強いて言うなら今の僕は“復讐者”さ」


 誰かがドアのノックした。タイソンとトリフィスはにらみ合ったまま動かない。ノックの音が激しくなる。「インドリル・トリフィス将軍、大丈夫ですか? 何か問題でも?」


「殺すなら急いだ方がいい」トリフィスが挑発して言った。「2分後には部下が扉を叩き破るからな」


「僕に命令するんじゃない、“叔父さん”」タイソンが首を振る。「先祖の歌が僕にどうすべきか教えてくれる。歌はあんたが僕の父さんに命乞いをさせてから殺したと言っている。だからあんたも同じ目に遭わせてやる」


「お前のご先祖がそこまで物知りなら――」トリフィスが微笑んだ。「なぜ全員死んだ?」


 喉の奥から獣めいた声を上げ、タイソンが突進する。扉は殴打の圧力でたわみ始めたが、造りが頑丈でしばらく破られそうにない。将軍の2分という見積もりは明らかに甘かった。


 ドアを叩く音が突然やみ、聞き慣れた声が響いた。


「テイ」ベイナラが呼ぶ。「私の話を聞いて」


 タイソンがにやりと笑った。「いいところに来たね、“いとこ”さん。今から君の叔父さんが惨めに命乞いするところだ。間に合ってよかった。君が次に聞くのは、僕の一族を奴隷のように扱った男の断末魔の叫びだよ」


「あなたを奴隷にしたのはトリフィス叔父さんじゃない、歌よ。信じてはため。その歌は毒のようにあなたを冒していく。最初は頭のおかしい老婆にあなたを操らせ、今はあの邪悪な魔女アクラにあなたを操らせている。あなたの姉を自称するあの女に」


 タイソンが剣先を将軍の喉に押しつけた。老いた男は数歩後退し、逆にタイソンは前進した。腕から剣の柄へと視線を這わせていく。窓の外の胸壁に向こうにそびえる火山の赤い光が、ダゴス家の銀の指輪に映り込む。


「テイ、お願いだからもう誰も傷つけないで。頼むから私の話を聞いて。一瞬でいいから、歌の言う事は無視して。それで何が正しいか分かるはず。愛しているわ」ベイナラはこみ上げる涙を堪えながら、努めて明確かつ冷静にしゃべった。背後の階段から音がし、ようやく将軍の衛兵が大鎚を持って駆けつけた。


 二度目の打撃で、ドアが引き裂けて開いた。インドリル・トリフィス将軍は喉を押さえながら、窓の外を見ていた。


「叔父さん、大丈夫?」ベイナラが駆け寄る。将軍がゆっくりうなづいて手をどかすと、首にはかすり傷が付いているだけだった。「テイはどこ?」


「窓から飛び降りた」トリフィスは言い、遠くを指差した。グアルに乗った人影が、火山の方へ向かっているのが見えた。「ここで死ぬ気かと思ったが、まんまと逃げられた」


「我々が捕まえます、将軍閣下」ラエル指揮官は言い、衛兵たちに騎乗を命じた。ベイナラは彼らの出陣を見届けてから、叔父に素早くキスをし、自分のグアルの持つ中庭へと駆け出した。


 レッドマウンテンの山頂へ近づくにつれて、テイは汗だくになった。グアルの息が荒い。鈍重な足取りでのろのろと前進し、暑さに不満を漏らすようにぶうぶう鳴いた。やがてテイはグアルを乗り捨て、垂直に近い壁をよじ登り始めた。山肌を吹き降ろされる風が灰を運び、テイの目に入った。ほとんど何も見えない。がなり立てる歌の調べを無視する事など、もはや不可能に近かった。


 数メートル先で、真っ赤な溶岩が水晶の岩場を縫ってシルクのように流れていた。その熱でテイの肌が焼け、水膨れができ始めた。テイが顔をそむけると、煙の中に人影が見えた。ベイナラだった。


「どうするつもりなの、テイ?」火山に負けじと彼女は叫んだ。「歌に耳を貸すなって言ったじゃない!」


「歌と僕の望みが初めて一致したんだ!」テイが叫び返した。「僕の事を忘れろとは言わないけど、努力はしてくれ!」


 テイはさらに上へと這い上がり、ベイナラの視界から消えた。彼女はテイの名を叫びながら岩場を登り、火口のそばへとやってきた。波のように押し寄せる灼熱のガスにあえぎ、思わず膝をつく。揺らめく向こうにテイがいた。火口のへりに立っている。服から炎が噴き出し、髪は燃えていた。テイが振り向いて、一瞬、彼女に微笑んだ。


 そして身を投げた。


 ベイナラは呆然としながら火山を下り始めた。長く険しい道のりが続く中、この後やらなければいけない仕事について考えを巡らせてみる。ゴーンの家の貯蔵庫には十分な食料があったかしら? 五大家の会合があるのに? 評議員たちは数週間うちに泊まるようね。ううん、数ヶ月になるかも。ああ、やることが山ほどあるわ――ゆっくりと山を下りながら、彼女は忘れ始めていた。いつまで続くかはわからないにせよ、最初の一歩は踏み出せたようだった。


 ダゴス・アクラは火口のすぐそば、自分が耐えられるぎりぎりのところに立っていた。炎熱で汗だくになりながら、灰に目をしばたかせる。そしてすべてを見届けてから笑った。ダゴス家の紋章が彫られた銀の指輪が地面に落ちていた。タイソンが滝のように汗をかいたせいで、指から抜け落ちたのだ。彼女はそれを拾って指にはめ、その手でお腹に触れた。彼女の耳に、モロウウィンドの毒の歌の新たな調べが聞こえてきた。